2008年02月20日

石油の起源


本当にこんな現実があるなんて悲しいですね。

生物由来説(有機成因論)
現在の学説の主流である。百万年以上の長期間にわたって厚い土砂の堆積層の下に埋没した生物遺骸は、高温と高圧によって油母(kerogen)として知られているワックス状の物質に変わり、次いで液体やガスの炭化水素へと変化する。これらは岩盤内の隙間を移動し、貯留層と呼ばれる多孔質岩石に捕捉されて、油田を形成する。この由来から、石炭とともに化石燃料とも呼ばれる。

有機成因論の根拠として石油中に含まれるバイオマーカーの存在がある。 葉緑素に由来すると考えられるポルフィリンや、コレステロールに由来すると考えられるステラン、あるいは、酵素の関与しない化学反応では生成が困難な光学活性をもつ有機化合物などが石油に含まれるバイオマーカーとして知られている。

これら石油の大部分は油母(kerogen、ケロジェン)の熱分解によって生成していると考えられている。 これは、石油中に含まれる炭化水素の炭素同位体比を調べた結果、炭素数の少ない炭化水素ほど、質量の軽い炭素同位体を含む割合が多くなるという傾向が、熱分解による炭化水素の生成の傾向と同じであることが知られているためである。

この結果は、メタンのような炭素数の少ない炭化水素の重合によって石油が生成したとする無機成因説とは矛盾するため、多くの学者は有機成因説を支持している。


] 無機成因論
惑星(地球)内部には膨大な量の炭素が存在するのが自然であり、一部分は炭化水素の形で存在している。炭化水素は岩石よりも軽いので、地表へと染み出してくる。この無機成因論に基づけば、一度枯れた油井もしばらく放置すると再び原油産出が可能となる現象を説明することができる。

無機成因論の根拠としては「石油の分布が生物の分布と明らかに異なる(深い地層に埋蔵されている)」「石油の組成が多くの地域で概ね同一である」などがあげられる。

また、トーマス・ゴールドの新しい説が2003年のScientific American誌で発表され、それによると炭化水素は地球の内核で放射線の作用により発生するとされている。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月10日

ポリ塩化ビニル日本での利用

大変興味があります。
ポリ塩化ビニル日本での利用のまじめな話。実は知らないことばっかりでした。

日本では、1941年に工業化された(なお、塩化ビニルモノマーについては、エアロゾルの噴霧助剤として使われていたが、1970年頃に人体に害を及ぼすことがわかり使用禁止となった)。現在、年間約200万トン製造されている。

1990年代には、ポリ塩化ビニルをはじめとする塩素系プラスチックがダイオキシン類の主要発生源と考えられ、社会問題として浮上し、不買運動にもつながった。現在ダイオキシンは、塩素系プラスチックのみならず、塩素と炭素が含まれる廃棄物を焼却処分する際に不完全燃焼になると発生すると考えられている。対処法として、焼却炉の性能向上による不完全燃焼率の軽減、分別により塩素を含むごみを焼却しない、リサイクル制度の拡充、塩素系プラスチックの使用量削減などが提案されている。また、業界団体からは、焼却炉からのダイオキシンの主要発生源はポリ塩化ビニルではなく食塩によるものとする研究も出されている。これに関連して、文部省(現・文部科学省)は学校の焼却炉を廃止するように通達を出した。

また、近年、いわゆる環境ホルモンへの関心が高まる中で、ポリ塩化ビニル中に含まれる可塑剤が食品中などに溶け出すことで人体に与える影響も取り沙汰されるようになった。そのためこれまで可塑剤として多く用いられていたフタル酸エステルから、人体への影響や溶出量が少ないとされる他の可塑剤への切り替えが進んでいる。

玩具にも、柔らかく変形する人形はソフビ(ソフトビニル)人形と呼ばれ、怪我などに対する安全上の配慮からも多く用いられて来たが、現在では使用が制限され、代替材料としてエラストマー樹脂が用いられるようになった。

また、弁当などの食品製造時に用いられている手袋も、同様の理由から問題となった。

2000年6月、厚生省(現・厚生労働省)は食品製造時のポリ塩化ビニル製手袋の使用をとりやめるように通達を出した。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2007年09月22日

福田赳夫について

長男の福田康夫が晴れて総裁選で勝ったら親子二代で内閣総理大臣を務める事になりますね。
康夫氏のひょうひょうとしたところや、一度決めたらかなりの頑固でなかなか腰を上げない性格は父親譲りだと聞いた事があります。


『参照記事』


群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(元金古町長)の二男として生まれた。福田家は江戸時代には名主(庄屋)を務めた地元の名門であった。小学校の頃から神童の誉れ高く、旧制高崎中学(現在の群馬県立高崎高等学校)を首席で卒業し、第一高等学校から東京帝国大学法学部へ進学。高等文官試験に一番の成績で合格し、大蔵省に入省した。同期に前尾繁三郎、長沼弘毅がいる。大蔵省入省から一年を経ずに、 財務官付の役職でロンドンの在英日本大使館に派遣された。当時の上司にあたる財務官は津島寿一である。三年半のイギリスでの勤務の後、帰国。その後は大蔵省の主計局で順調に出世して局長にまで登り詰めた。しかし、1948年の政府関係者に対する贈収賄が問題になった昭電疑獄の際に、大蔵省主計局長だった福田は収賄罪容疑で逮捕される。結果として無罪にはなったものの、これを機に大蔵省を退官した。

1952年の第25回衆議院議員総選挙で群馬三区から無所属で立候補し当選、岸信介に仕えた。野田卯一、池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。1958年にはわずか当選4回で自由民主党政調会長に就任、

1959年1月から 幹事長を、6月からは農林大臣を務める。

1960年 12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男、田中龍夫、一万田尚登、倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。続く佐藤栄作政権下では大蔵大臣、党幹事長、外務大臣と厚遇され、佐藤の後継者として大いにアピールしたが、この時から“ポスト佐藤”をめぐる田中角栄との熾烈な闘争が始まる。

日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える。また中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して台湾との関係を重視した慎重路線を打ち出す。これらの「外交タカ派」のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である町村派の森喜朗や小泉純一郎、安倍晋三らに引き継がれている。